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マリオ・ランツァ( Mario Lanza )



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歌手の紹介


マリオ・ランツァ(Mario Lanza、本名:アルフレード・アーノルド・ココッツァ(Alfredo Arnold Cocozza)、1921年1月31日 - 1959年10月7日)は、アメリカ合衆国の歌手、映画俳優。力強い独特なテノールの歌唱でコンサート、ラジオ番組への出演等を通じ、時代の寵児となった。特に20世紀前半を代表する世界的な名歌手エンリコ・カルーソーの生涯をドラマチックに描いた伝記映画『歌劇王カルーソ』はランツァの人気を決定的なものとし、その後本格的なオペラ歌手を目指したが、身体と精神を患い夭折した。


来歴

1921年1月31日:ペンシルベニア州フィラデルフィア、イタリア人街の一角、クリスティアンストリート336番地に生まれる。
1927年:セントメリー・マグダレーネディ・パッツィスクール 入学
1930年:親戚9世帯が同居していたが、祖父の支援で近くのマーシーストリート2040番地へ移り住み住環境が改善
1932年:ヴェア・ジュニアハイスクール 入学
1932年:1932年5月5日にフィラデルフィアのオーロラ協会が主宰したカルロ・ニコシア作のオペレッタ『愛の夢:(原題Amore-vita)』に出演。
1935年:サザンハイスクール 入学
1936年:フィラデルフィアのバリトン歌手、スカルドゥッツィオから指導を受ける
1938年:アイリーン・ウィリアムスに師事
1940年:フィラデルフィアフォーラムのハフ監督がクーセヴィッキーに紹介
1942年:クーセヴィッキーの主宰するバークシャー音楽院へ奨学、正式に舞台デビュー
1942年:8月7日で、その翌日にはラ・ボエームにロドルフォ役にも出演。(第3幕のみ)ウィンザーの陽気な女房たちフェントン役で本格的な舞台デビュー
1943年:兵役召集
1944年:RCAレコードの赤盤歌手として3,000ドルで契約
1946年:エンリコ・ロサティに師事
1946年:25,000人の聴衆を前にグラント・パークで行われたコンサートで、シカゴ・トリビューンの評論家クラウディア・キャシディから高く評価される。
1947年:ジョージ・ロンドン、フランシス・イーンド(英語)との「ベルカント・トリオ」でアメリカ合衆国をはじめとする北米各地で86回のコンサートツアー凱旋
1947年:ハリウッド・ボウルに初出演
1947年:MGMのオーディションに合格し俳優としての7年間の専属契約を締結
1948年:4月8日と12日、ニューオリンズ・オペラ(英語)において『蝶々夫人』にピンカートン役で出演。(蝶々夫人は日系ソプラノの金沢富子)
1949年:映画『真夜中のキス』で映画初主演
1949年:RCAレコードにおける初商業録音
1950年:“Be My Love” でシングル全米ミリオンセラー
1951年:“ The Loveliest Night of the Year” で2回目のシングル全米ミリオンセラー
1951年:コカ・コーラをスポンサーにしたラジオでのマリオ・ランツァ・ショー
1952年:イギリス王室主催のロイヤル・コマンド・パフォーマンス映画部門に主演作品が首位招聘される。
1952年:“ Because You’re Mine” で3回目のシングル全米ミリオンセラー
1952年:MGMによって、1954年の契約終了までの間、全ての公演・録音を差し押さえられる。
1953年:MGMと和解し、RCAレコードでの録音を再開。
1954年:米CBSのテレビ番組に出演
1954年:ワーナー・ブラザースと契約
1957年:イタリアへ居を構える
1957年:イタリアでmaschera d'oroを授与
1957年:イギリス王室主催の“Royal Command Performance”に出演
1957年:最後となったコンサートツアー
1959年10月7日:ローマのヴィラ・ジュリア医院にて死去、38歳没