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真山一郎( まやま いちろう )



アルバムリスト
歌手の紹介


真山 一郎(まやま いちろう)は、浪曲の名跡。当代は2代目。

初代
初代真山 一郎(1929年(昭和4年)6月3日 - ):本名は西本恭男(旧姓・野田)。血液型はO型、家紋・三つ鐶桜。浪曲師だけでなく歌謡浪曲、江州音頭と幅広く活躍。

略歴

11人兄弟の長男として生まれた。農家だが父は元々興行関係にも携わっており、その縁で旅回りの浪曲師が実家に出入りするようになった。その影響から幼くして浪曲を志し、5歳の時にはお寺で寿々木米若の「佐渡情話」を語って天才少年と称された。高校を卒業すると同時に、1947年に華井新の門下になり華井満を名乗る。まもなく一座の花形となり1948年に華井新十郎と改名。師匠と二枚看板で全国を巡業する。

入門し数年がたった時に、真山は歌謡曲を吹き込みたくなったが、昔気質の師匠と対立してしまい、師匠に内緒で岸日出夫という名前でマーキュリーレコードから「内緒で御座る」を吹き込むが、すぐに師匠にばれてしまい。破門となる(数年後に破門取り消しとなる)。

歌の勉強のため豊田一夫に師事し、1957年、当時のマーキュリーレコードのプロデューサーが「日本一の山は富士の山、あの山のように一番になれ」という理由を込めて真山一郎と命名。1961年よりキングレコードの専属となる。1961年11月発売の「刃傷松の廊下」が翌年にかけて大ヒット。1971年新作歌謡浪曲「日本の母」が大ヒットし、浪曲の世界に復帰する。

真山の浪曲は元来、浪曲に歌謡曲の入る歌謡浪曲というスタイルであった(#芸風を参照)。1970年より真山の相三味は東家菊栄であったが、高齢の為1983年に引退を余儀なくされる。これに困った真山はしばらくの間は西崎恵美子等の曲師に弾いてもらっていたが、本来の目的でもあった歌謡浪曲の追求、洋楽伴奏だけの歌謡浪曲を創ることに専念し、「演歌浪曲」と称する型を追求した。自ら作曲したカラオケを録音したテープを使い、妻を裏方(オペレータ)として舞台に出した。一節一節効果音が入る為、デッキを付けたり消したりしなければならず、それこそ舞台上では曲師同様の働きをしている。元々、オーケストラ伴奏のみの浪曲は1978年発表の「北方の故郷」が第一作であったが、この時は「浪曲ドラマ」という名義であり、この作品を発表した際は、一つの企画に過ぎず、舞台では三味線入りの歌謡浪曲がメインであった。

1984年頃より徐々に演歌浪曲に重点を置いて演じるようになり、翌85年に完全移行してから引退する2010年までの25年間一度も三味線の浪曲を演じることは無かった。弟子も同じ形式の「演歌浪曲」を演じる。

2008年に脳梗塞で倒れた後は舞台には出ずリハビリに励んでいたが、体調不良もあり2010年5月に引退を決意し、弟子の真山広若へ名前を譲ることになり2010年12月4日国立文楽劇場で真山一郎引退公演で惜しまれつつ引退。最後に自身の最大のヒット作である刃傷松の廊下のアテ節(サビ)を語って引退した。