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ゴードン・ハスケル( Gordon Haskell )【 合計 9 曲 】
ゴードン・ハスケル(Gordon Haskell Hionides、1946年4月27日 - )は、イギリス出身のミュージシャン、ベーシスト、ギタリスト、作曲家、作詞家。

ゴードン・ハスケルは1946年イギリスはドーセット州ボーンマスの産院にて生まれる。

1961年、学友のロバート・フリップからギターの手ほどきを受け、7月終わりに一緒に組んだ初めてのバンド、レイヴンズでベースを担当。 9月にはウィンボーンにあるウェスト・ムーア・ユース・クラブの教会で初めてのステージに立った。
1962年8月解散。フリップのみダグラス・ワードのトリオやホテル専属バンドでセミプロ活動を続けた。
1964年3月、ハスケル、フリップ、リーダーのティノ・リチニオの元レイヴンズメンバーが集まり、新ドラマーとヴォーカルを加え、バンド名をザ・リーグ・オブ・ジェントルメンとし5人編成で活動。
ビートルズやロイ・オービソン、フォーシーズンス等、主に当時のヒット曲を演奏していた。ドーセットの地元バンドとして地方紙に載るがデビューには至ってない。
1965年夏、フリップが学業専念の為に脱退。バンドはその後も秋まで活動し解散。(当時出た同名バンドによる二枚のシングルはハスケルやフリップと無関係の別バンドで、バンド名をLeagueに変えた後にも一枚シングルを出していた。 )
その後、かって同郷のジャイルズ兄弟も参加してたダウランズのツアー参加中、観客からフルール・ド・リスでベースを募集していると聞き、年末に加入。
ロンドンに出たハスケルは66年中頃からリンゴ・スター所有でジ・アニマルズが住んでいた豪邸に8ヶ月下宿しており、アニマルズのチャス・チャンドラーが米国から連れて来たジミ・ヘンドリックスも一緒に住んでいた。

1966年3月、フルール・ド・リスのセカンドシングル「サークル」でレコードデビュー。
このバンドが1965年に出した最初のシングルはジミー・ペイジプロデュースだったが、ハスケル参加のセカンドシングルはグリン・ジョンズとトニー・キャルダー共同プロデュース。
ハスケル本人もジミーペイジによる制作関与を問われ「当時ペイジには会った事がない」と述べている。
1967年からフルール・ド・リスの三代目マネージャーに就いた人物がアトランティックの英国部門ヘッドだった事もあり、セッションやバックバンド活動にも数多く参加。様々な歌手のレコードや作曲家のデモでもベースを弾いている。
この時期初めて他の歌手にレイジー・ライフという楽曲を単独で提供している(南アフリアでシングルチャート2位、内二つの州で1位。)。
1968年4月、フルール・ド・リスを脱退。フラワーポット・メン、キューピッズ・インスピレーションといった当時既にヒット曲を出していたグループのツアーに参加。
この当時、書き貯めていた曲をマネージャーと売り込み、キューピッズ・インスピレーションのプロデューサーであったジミー・ダンカンの手によりソロアルバムを制作。
1969年秋、ファーストソロアルバム『Sail In My Bost』を英CBSより発表。
またこの年結成したばかりのキング・クリムゾンのリハーサルに旧友のフリップを尋ね度々見学に訪れていた。

1970年春、キング・クリムゾンのセカンドアルバムポセイドンのめざめ収録ケイデンスとカスケイド Cadence And Cascade にヴォーカルでセッション参加。
旧友ロバート・フリップの熱心な誘いを受けキング・クリムゾンにベース兼ヴォーカルで加入。1970年夏、サードアルバムリザードに参加。
アルバム制作終了後の秋に引き続いて行なわれたライブ用リハーサルでフリップと対立し脱退。

クリムゾン離脱後、来英中だったアトランティックレコード会長アーメット・アーティガンにレコードプロデューサーのジョン・ミラーの勧めで面接しに行き、その場で歌いレコード契約を得た。
1971年夏、セカンドアルバム『歳時記』It Is And It Isn'tが制作され、解散したモーガル・スラッシュからジョン・ウェットンとビル・アトキンソン(=ビル・ハリソン)が参加している。
ギターにはハスケルと同じくドーセット州出身でかってダウランズでもプレイしていたアラン・バリー(このセッション後にフィールズへ参加)を呼び寄せた。
ロンドンでの収録後、プロデューサーアリフ・マーディンがニューヨークのスタジオで追加録音とマスタリングを行なったが、ハスケルは帯同しなかった。
11月ロンドン・レイボウシアターでウィッシュボーンアッシュ、マウンテンらと共演。その後スタクリッジ、オーディエンスと共にツアーに出た。
アルバム発売から9ヵ月後にはソロ歌手を諦め、ティム・ハーディン、ブリン・ハワース等のバックバンドでベーシストを勤めた。

1974年、スタクリッジとセッションをするも正式加入には至らず、ハスケルのセカンドアルバム楽曲wormが彼らの4thアルバムExtravaganzaでカバーされている。
フルール・ド・リス時代の同僚ギタリスト、ブリン・ハワーズのファーストソロアルバム『Let The Days Go By』に参加。
1976年、ブリン・ハワースのBBCラジオ出演のバックバンドで加藤ヒロシ、ジム・ラッセルと知り合い、バンド『ジョー』を結成、ディスコ音楽作品を制作。
翌77年バンドJOE名義にてシングルを発売。メル・コリンズも同シングルに参加している。

1977年、山口百恵のロンドン制作アルバム『GOLDEN FLIGHT』にジョーのメンバーらと参加。百恵のロンドン観光には自身のクルマを貸している。この時期初来日も果たしている。
この当時セッション仕事の無い日にレストランバーで歌っていた際の仲間の紹介で、クリフ・リチャード・バンドのツアーに12週間参加した。
またこのツアー終盤には元フィールズのアラン・バリーも極短期間参加していた。
1979年、RCAと二年のソングライター契約、ハスケルが提供した歌レイジー・ライフを1967年に唄ってたビル・キンバーによるプロデュースでサードアルバムの制作に入るもテスト盤止まりで発売されず。
そのセッションからシングル盤4枚が発売されたのみだった。(97年にCDアルバムで発売。)
1984年以降はスペインや北欧など各地で酒場巡りの弾き語り歌手をするなどして過ごしていた。

1989年、自身のレーベルWilderness Recordsを立ち上げ。翌1990年、アルバム『ハンブルドン・ヒル』で9年ぶりにソロ名義作品を発表。
2001年末、クリスマスソングとして発表したHow Wonderful You Areが全英シングルチャート2位のヒットとなり、翌2002年春発売通算9作目のアルバムHarry's Barも全英アルバムチャート2位を記録した。
2007年、自宅のあったドーセットからギリシャのスコペロス島に妻ら家族と移住。
2015年年頭、プロ活動50周年に5年ぶりのシングル曲I'm letting everybody knowを発表。(英国以外ではダウンロード販売のみ。)年末からは久しぶりのUKツアーを行なった。
2016年末、英国に住まいを戻し、活動を再開した。
曲名リスト•モード アルバム順(発行時間) 曲名順(文字数) 曲名順(その他)
  ソング 作詞 作曲 日付
1 Al Capone     2002
2 All the Time In the World (Radio Edit)      
3 Cookie Jar      
4 How Wonderful You Are (Harry's Bar)      
5 How Wonderful You Are (Larry Peace Mix Radio Edit)      
6 Sunshine In the Night     2002
7 The Lady Wants To Know      
8 There Goes My Heart Again     2002
9 Things We Said Today